スターハムのりんご味サッカー

思ったことを書くだけのブログです、超不定期更新

生存価値

みなさん、生きていて楽しいですか?

 

 

 

どうも、ハムスターです

 

ぼくは、結構ネガティブで深く考え込んでしまうタイプなので、時折病んだり鬱になってしまったりします。最近はそれほどでもないですが口癖が「死にたい」になってるのは良くないですね。

 

特に、「生存価値」について考えることがままあるんですが、今回はこれについて自分なりの考えを語っていきたいと思います。

 

なお、この先倫理観・道徳観的な配慮が欠如した論が展開されますが、この論は(私自身は)私自身にのみ適用し、他の人には適用しないということを注記して配慮しておきたいとおもいます。

 

 

 

・生存価値の分類

 

私は生存価値は2つに分類することができると考えました。

 

1つは「自己的生存価値」。これは簡単にいえば、自分が生きてて楽しいか、生きてて辛いかということを表す指標です。

 

もう1つは「社会的生存価値」。これは自分以外の他者から見た生存価値ということになります。例えば、羽生結弦くんは華麗なスケートで大勢の人を楽しませているので社会的生存価値は大いにあるということになります。

 

「社会的生存価値」は、なにも大勢を楽しませていなくても発生し、たとえば愛し合っている恋人には相互的に社会的生存価値が発生していることになるし、コンビニでバイトしてる若者は、コンビニの運営に貢献してるから社会的生存価値が発生しています。

 

 

・自分自身に置き換えてみる

 

さて、今の自分は生存価値があるのでしょうか。

 

まず「社会的生存価値」について考えてみます。

 

例えば親。多分嫌われていないということを鑑みると、少なくとも親から見た生存価値はそれなりにある気がしています(そうでないと仕送りなんてして貰えていません)。

 

友達(ここでは一旦リア友に限ります)から見た私の存在価値も0よりは大きいでしょう。自分でも不思議ですが、一切自発しない鍵ツイ垢に20人ぐらいFFがいるので、(根拠としては薄いですが)たぶん嫌われてはいません。

 

ネットの世界ではどうでしょうか。

一応現在のようつべは登録者が1300人ぐらいいるし、視聴回数もそれなりに撮れるので、僕が死んだら1人2人は悲しんでくれる気がしてます。ということは僅かに生存価値は保証されてそうです。

 

「社会的生存価値」はあることがわかりました。

ただ、一方で「自己的生存価値」について考えてみると、ほぼ0であると言わざるを得ません。正直楽しくもなんともない人生をだらだら送っている、そんな日常が続いています。バイトでもすれば良かったのかもしれませんが、タイミングを逃してしまいました。

 

 

・結局生存価値はある?ない?

 

でも、「社会的生存価値」はそれなりにあるのだから問題ない、そう一瞬は思ったのですが、ここで問題が発生します。

それは「社会的生存価値は実感として感じにくい」ということです。

 

基本的に「社会的生存価値の存在」を裏付ける証拠が乏しいのが現状です。例えば彼女がいて、毎週のようにデートしてる、そんな日常であれば別ですが、基本的には明確に裏付ける証拠を出すのは困難です。

 

結局生存価値はあるけど、実感としてほとんど生存価値を感じずにいる。というのが今の私の現状です。

 

 

・死んだ方がいいのか?

 

じゃあ死んだ方がいいのでしょうか?

 

そうかもしれないですが、今現在僕には死ぬ勇気が一切ありません。怖いです。怖すぎます。

 

死なないなら生きるしかありません。

ただ、生存価値もろくに感じないまま生存し続けるのはある意味苦痛を伴うので、生存価値が欲しいのですが、そこに僕のネガティブな思考が蓋をし続けています。

 

 

 

 

 

もしかしたら続く…かも?